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歴史を訪ねて  文化をいそしむ   自然を愛でる
石田三成コース   戻る
 
関ヶ原の戦い 三成陣地  「太閤検地」を行い日本全国の正確な生産高を把握し、「人掃令」によって、全国の戸数・人数を調べあげ、「刀狩令」によって農村の武装解除を成し遂げた。これら、豊臣秀吉の名で語られる様々な政策を実際に行ったのは、秀吉の奉行・三成であった。
ー中略ー
 豊臣政権に服属した大名折衝を含めた外交面でも、三成の活躍は目覚しい。三成は豊臣政権の内外交における責任者として、秀吉の代わりに、全国を馳走した人物なのである (太田浩司著)
   
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 【産湯の井戸】石田三成の産湯の井戸として伝わる。三成は永禄3年(1560年)、坂田郡石田村(長浜市石田町)に土豪石田十左衛門正継の次男として生まれる。幼名佐吉。父正継は浅井氏の家臣であった。    【小字名:治部石田町に、治部という、広さが1町4段 (約13.880u)の土地がある。 この小字すべてが、石田家の屋敷であったかは定かでないが地名自体は石田三成の官途「治部少輔」から命名されたものである。
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【小字名:番場】石田町に番場と呼ばれている場所があるが、ここは「村の武士」の軍事訓練に関する地名である。他にも『的場』 『御畑』という「村の武士」に関わりありそうな地名が並ぶ。   【三成会館】三成の事跡を写真・パネルなどで紹介している。  
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 最近造立された石田三成像。    【石田治部少輔三成出生地】 昭和16年に建造されたと大書された石碑。
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 【堀端、又は治部池】三成会館の隣にこのように呼ばれる小さな池がある。この池は、石田屋敷の堀の一部であると伝えられている。    【八幡神社】屋敷跡の東にあり、石田家の氏神と言われる
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 【石田三成公一族供養塔】 昭和16年、八幡神社の境内から、故意に割られた多数の五輪塔残欠が発見された。その一部には、天文・永禄の年号が刻まれているものもあり、石田家に関係ある墓で、その滅亡後破壊されたのではないかと推定されている。昭和47年になって、八幡宮の裏手に供養塔が新たに建立され、その周りに出土した墓石も改葬されている。  
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 【石田三成辞世の句】
   筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
   ともに消えゆく わが身なりけり
   【石田三成直筆の句】
 残紅葉 散り残る 紅葉はことに いとおしき
       秋の名残は こればかりぞと
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 【石田地蔵】徳川の時代、石田の里人は三成公を表向きには拝めないので、お地蔵さんに姿を変えて密かに托拝した。      左手建物が石田会館。右手の林が八幡神社。奥の山が横山でその山の向こうに観音寺がある 又、横山の頂上付近に横山城跡がある。 
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 【三成出会い像(三献の茶)】三成は1574年頃、坂田郡大原庄の観音寺(長浜市古橋村の法華寺三珠院とも)で修行中に秀吉に見出され、その近習となる。長浜駅前に建てられた像。   【石田三成水汲みの池】観音寺境内には三成が秀吉に出す茶湯を用意するため、水を汲んだといわれる井戸跡がある。 
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 【大原観音寺】三成がうまれた、石田から東に峠を越えた麓、かっての大原荘内、現在の米原市朝日にある天台宗寺院である。滋賀県指定文化財となっている600点余にのぼるその所蔵文書の中に、石田村の土豪だった石田氏の姿が散見される。
 観音寺文書から三成の父、石田正継は観音寺への寄進田年貢を納入し、同寺の「旦那職」を受けるなど、観音寺を支える立場にあったことが読み取れる。  
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 【佐和山城跡】応仁の乱以降、京極・浅井氏、それに六角氏が三つ巴で合戦を展開するが、佐和山城は 三氏の攻防の対象となり、たえず城主や城代が入れ替わった。1561年3月以降は浅井氏重臣である、磯野員昌が城主となったが、姉川合戦後信長に破れ無血開城した。その後、信長家臣の丹羽長秀、秀吉家臣の堀秀政、堀尾吉晴らが入城する。その後しばらくおいて、1591年4月石田三成が入城する。  
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【大手門より見た佐和山城跡】手前は大手土塁跡。この大手に開く谷(殿町谷)を中心に山上に曲輪が展開していた。正面の山上に本丸があり、そこから谷を両手に包むように、北の尾根(写真右手)には二ノ丸・三ノ丸が存在し、南の尾根(写真左手)には太鼓丸がある。    【石垣跡】関ヶ原合戦 で敗れると、父・正継や兄・正澄が守備した城は井伊直政、小早川秀秋、田中吉政らの猛攻を受け、落城する。三成の旧領と城は井伊直政に与えれれる。直政が没すると新たな当主となった直継・直孝彦根築城を開始し、その完成と共に佐和山城は廃城となっていく。
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 【龍潭寺(臨済宗)にある石田三成像】彦根藩主・井伊家の菩提寺の一つだが、元禄期になると、非公式ながら石田三成の菩提を弔うことが許されたという。佐和山へは、この三成像の脇を抜けて登のが一般的。    【清涼寺】龍潭寺の北隣にある。ここに三成の重鎮・嶋左近の屋敷があったと伝わる。
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 【石田神社】関ヶ原を出た三成は途中、谷口村で一軒の家にかくまわれた。お礼に刀と短刀を置いて行かれ石田姓と鳩八の家紋を与えられた。その石田家の敷地の一角に小さな祠が残りここでずっと三成を祀ってきた。。    【大谷吉継の首塚】関ヶ原の合戦で石田方の旗頭として、奮迅の働きをした大谷吉継公の首塚として伝えられ今でも地元の人々に守られ供養されています。吉継公は湯浅五介の介錯で自刃し、甥の僧祐玄が首級を綿の袋に入れて、敦賀への逃亡の途上に、この地に埋め隠したと言われています。(古戦場巡りコース、関ヶ原の戦いを参照)
     
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