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【浅井長政・お市と3姉妹・万福丸の像】 浅井系図には、浅井長政とお市にはもう一人、万寿丸(万菊丸)という次男がいたと記されている。 |
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【浅井長政・お市の像】JR河毛駅前に建つ二人の仲睦まじい像。バックの山は小谷山城。左手前に少し丁野山城が見える |
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【 小谷城】 日本でも最大級の山城で中世の五大山城の一つに数えられている。その構造は標高495mにある大嶽。中腹に階段状に築かれた本丸・大広間。そしてお屋敷や家臣団の屋敷があった清水谷の三元的構造となっている。長政とお市の日常生活は清水谷の「お屋敷」か、小谷山上の「大広間」かは不明である。しかし「お江」が生まれたのは小谷落城の年であり、戦火が迫っていたため山上で生まれたと考えられる。 |
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【小谷城戦国歴史資料館】小谷城周辺の史跡や図面の解説の他、小谷城跡の発掘調査によって発見された食器や剣などが展示されている。 |
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国道365号線からよく見える山復の看板 |
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【小谷城清水谷】清水谷には浅井氏屋敷や家臣団屋敷、そして徳勝寺や知善院などの寺院が点在した。特に、谷の最奥部には「御屋敷」と呼ばれる浅井市の屋敷(居館)があり、平時には領国統治の政庁であったと考えられる。 後ろの山は標高495.5mの大嶽。 |
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【望笙峠】 ここから一望する湖北の町とびわ湖の景色は絶景です。又、東に目をやると木々の間から「姉川の合戦場」「伊吹山」も見渡せます。 |
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【城跡案内看板】番所の近くにある案内板。普段はこの近くまで車で来られます。(博覧会開催中はバスのみ)番所はスパイなどの城内への出入りをきびしく監視した所。 |
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【本丸跡より大広間を見下ろす】大広間は別名「千畳敷」と呼ばれ、約3,500uあり、城内で最も広い平坦地。発掘調査により、大広間だけで、3万7千点の遺物が出土し、居住空間であったことがあきらかになった。又、小谷落城時の消失の痕跡はなかった。 |
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【御局屋敷跡】本丸の西側、一段低いところにある腰曲輪で、狭い上に本丸へ上がりにくい。女房たちの居所といわれるが、ここに居住していたかどうかは謎である。 |
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【桜馬場より望む】桜馬場は大広間跡の前にある曲輪で、細長く左右2段からなる。
びわ湖に浮かぶ竹生島とともに、山本山城、丁野(ヨウノ)山城、中島城など小谷城の支城がが眼下に見渡せる。(NHK大河ドラマでは浅井長政に嫁いだお市の方が最初に案内された場所) |
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【馬洗池跡】南北9m、東西6.6mの石積みの池である。字の通り、そこで馬を洗ったものとみるよりは、城中の飲料水確保溜井であったという説が有力なようです。 |
(小谷城は古戦場巡りコースも参照して下さい) |
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【小谷寺】 今からおよそ1,300年前(奈良時代)加賀白山の開祖・泰澄大師が白山から伊吹山までの峰々に建てた修行道場の一つとして建立されたのが始まり。当初は小谷山頂に坊を構え「妙法院常勝寺」と称していたが、1,429年には後花園天皇より、「如意輪山」の勅額を受けて勅願寺となった。1,524年頃、浅井亮政が小谷城を築いた頃、 麓の北谷へ降りてきて寺号も「小谷寺」と改めた。小谷寺は小谷城落城 とともに焼かれその20年後に現在の場所に再建された。再建には秀吉の力が大きかったと言われるが、浅井家の祈願寺であったことから、3姉妹の力添えがあったことは間違いないであろう。 |
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【浅井家侍女の墓】 五輪塔形状の墓石には「元亀4年」の文字が刻まれているが、この年は小谷落城の年でもあり、小谷城から逃れてきた浅井家の侍女の墓であるという伝承がある。 |
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【実宰院(実宰庵】天文11年(1543年)浅井長政の姉である昌安見久尼によって中興された寺である(当時は実宰庵と称されていたが、昭和29年実宰院と改称された)小谷落城の際、長政は3姉妹をこの寺に預けたという伝承がある。それは残された2通の古文書からも充分に想見できる(長浜城歴史博物館の太田浩司学芸員説) |
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【浅井歴史民俗資料館】資料館は4つの建物からなりたっていますが『学習館』では姉川の合戦、浅井家の歴史を、小谷城跡の出土品、古絵図、合戦屏風、写真パネル等を中心に紹介しています。その他『糸姫の館』『鍛冶部屋』『七りん館』があります。 |
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【徳勝寺(曹洞宗】もとは小谷城下にあった浅井氏の菩提寺で、医王寺と号した。秀吉の長浜城下建設に伴い城内に移され、浅井亮政の法名にちなんで、徳勝寺と改称し、廃城の際に現在地に移された。境内の奥に亮政、久政、長政の墓が並んである。 |
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【福田寺】 俗に長沢御坊と呼ばれる、浄土真宗本願寺派の名刹。息長寺の別名もあります。戦国時代、時の住職・覚芸(かくげい)は、真宗を護らんと、湖北十カ寺の信徒を率いて、浅井氏とともに織田信長と戦いました。境内には県指定の文化財「浅井御殿」や国の名勝である「枯山水の庭園」、「蓮如上人お手植えの松」などがあります。浅井長政には3姉妹の他に2人の男子がいたとも伝わっています。小谷落城時、長男・万福丸は敵に見つかり無惨な最期を遂げたが、次男の万菊丸は地元の家臣らによって救出され逃避行の後、福田寺の第11世覚芸の養子に入り、出家して第12世正芸として寺を継いだという伝承がある。 |
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